この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:前編 (5/7ページ)
(そのため、政子の狙いは単に伊賀の方やその一族の勢力を削ぐことであったとの説もあります)
かくして北条の家督を継いだ泰時は、亡き父の遺領を弟や妹たちに配分。その時、恨みが出ないよう自分の分け前を少なくしました。
心配した政子が「もっと多く取ってはどうか(勢力基盤を固めないと、また兄弟間で争いが起きるかも知れないから)」と勧めますが、泰時は「自分は執権だから」と気持ちだけ受け取ったと言います。
大きな権力を持つからこそ私欲を追及してはならず、誰よりも公正でなければ人はついて来ないことをよく理解していたのでしょう。
嘉禄元年(1225年)6月10日に大江広元、7月11日に政子が相次いで亡くなると、泰時は難局を乗り切るため頼朝から政子にいたるまでの専制政治から合議政治を提唱。
以前も「鎌倉殿の13人」こと十三人の宿老による合議制を模索していたものの、宿老たちの寿命や血で血を洗う権力抗争により、あっけなく瓦解したのは周知のとおり。
今度は執権と連署(れんしょ。署名を連ねる副執権)を取りまとめ役に、11名の評定衆(ひょうじょうしゅう)と合わせて13名の合議制を再編……こちらも「鎌倉殿の13人」ですね。