この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:後編 (3/5ページ)

Japaaan

それまでの律令が中国大陸からの輸入であり、明治時代から現代までの各種法律が欧米法学の輸入であるのに対して、御成敗式目は武士を中心とした日本社会の文化風習に即して独自に生み出されています。

これは日本の法制史上、非常に稀有な事例として是非とも覚えておいて欲しいです。

エピローグ

他にも京都のような鎌倉大番役(かまくらおおばんやく。全国各地の武士たちに交代で警固させる)や四角四境祭(しかくしきょうさい。鎌倉の四方を厄祓い)を導入したり、和賀江嶋(わかえじま。鎌倉沖の人工島)に港を整備して日宋貿易を盛んにしたりなど大活躍した泰時。

現代の和賀江嶋。画像:Wikipedia(撮影:通氏)

仁政を心がけた一方で、院政期以来対応に苦慮してきた延暦寺や興福寺など僧兵勢力には毅然とした態度で臨み、武力で鎮圧することもしばしば。

延応元年(1239年)12月5日は亡父の盟友であった三浦義村が病没、仁治元年(1240年)には叔父の時房も亡くなり、ついに執権として独り立ちすることに。

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