弔いを目的に作られるのは碑や神仏像だけでなく文学作品でも存在した (3/5ページ)
あらかじめ2人は船頭の頓兵衛に、渡し船の船底に2ヶ所穴をあけ、水が入らないように栓を差し込ませるという細工を命じていた。それと並行して川の向こう岸には、武装した300余騎の武士、そして渡し場の背後には150人の射手を配し、義興を絶対に取り逃がさないよう、手筈を整えた。その上、人目についてはまずいと義興をそそのかし、わずか13人の供(とも)だけにして、船に乗り込ませた。
船が川の中央に差しかかったところで頓兵衛は栓を抜き、即座に川に飛び込んで逃亡した。船は見る見るうちに水浸しになり、沈み始めた。それを合図に、船に向かって射手がいっせいに矢を射かけてきた。
■新田義興とその取り巻きが迎えた最後
この一連の迅速な攻撃に義興は、自身が敵の術にはまってしまい、もう逃げ道がないことを悟った。家来の井弾正(いの・だんじょう、生没年不明)は義興を自らの肩に乗せ、何とか水没しないように踏ん張っていたが、力尽きてきた。義興は「七度(ななたび)までも生まれ変わって、この恨みを晴らす!」と宣言し、刀を抜いて自害した。(南朝)正平13/(北朝)延文3(1358)年10月10日、28歳の若さだった。供の13人も皆、義興の後を追った。義興亡き後、南朝側には、北朝側と互角に戦えるほどの武者が二度と出ることはなかったという。
■弔いを目的に描かれる文学作品はたしかに存在してきた
新田義興のみならず、南朝・北朝の擾乱を描いた『太平記』のような軍記物語は、国文学者の山下宏明(1931〜)によると、平氏一門の栄華と没落を描いた『平家物語』(1309年以前成立か)などと同様、公的な歴史記録を目的としているばかりではなく、仏教的な栄枯盛衰、盛者必衰のことわりを説くことに加え、戦いの中で命を落とした人々の霊を弔い鎮める「いくさ物語」としての目的によって語られ、書かれ、継承されてきた側面もあるという。
「新田神社」のような宗教施設、或いは「頓兵衛地蔵」のような神仏像やモニュメントは、義興のように非業の死を遂げた人物の無念・怨念を鎮め、慰めるために日本国内に多く建てられてきた。しかし、そうしたものばかりでなく、『太平記』のように、作品そのものに「弔い」の目的・意味がある文学も存在していたのだ。