弔いを目的に作られるのは碑や神仏像だけでなく文学作品でも存在した (2/5ページ)
しかも「琥珀の塵や磁石の針」など、源内らしい「自然科学」的なせりふもあるこの浄瑠璃は大いにヒットし、だんだんと「エンターテインメント」的に洗練されていった。そして寛政6(1794)年には、歌舞伎化もされている。更に浮世絵にも描かれた。現在では主に4段目の、義興の弟・義岑(よしみね、新田義宗(よしむね。1331?〜1368)のこと)と頓兵衛の娘・お舟(ふね)が登場する「頓兵衛住家(すみか)の場」が、歌舞伎や浄瑠璃で演じられている。
■新田義興は優秀な武将だった
そもそも新田義興とは、どのような人物だったのか。南朝延元2/北朝建武4(1337)年に義興は、南朝方の北畠顕家(きたばたけあきいえ、1318~1338)が京都方面に攻め上って行ったことに呼応して東国の軍勢を率いて参陣し、功績を挙げた。しかしその当時、父・義貞が顕家に対抗意識を有していたことや、義興自身は義貞の次子ではあったものの、正室(せいしつ。本妻)の子ではなかったために疎んじられていたことから、義貞から離れ、主に東国を拠点として活躍していた。
義貞亡き後も義興は、(南朝)正平7/(北朝)観応3(1352)年に宗良親王(むねよししんのう、1311〜1385)を奉じ、上野國(現・群馬県)で蜂起した。そして下野國(現・栃木県)の有力武将・芳賀高貞(はがたかさだ、生没年不詳)の軍を破り、武蔵國に進出した。その後、鎌倉を占拠するなどの武功を立てていた。
■頓兵衛に嵌められた新田義興
このような義興の動向は、北朝方の足利一門にとっては「目障り」だった。そこで北朝側の武蔵守護だった畠山国清(くにきよ、?〜1362)は、手下である竹沢右京亮(たけざわうきょうのすけ、生没年不明)に、義興討伐を命じた。それを受けて竹沢はさまざまな策を弄したが、なかなかうまくいかない。ついに江戸遠江守(えどとうとうみのかみ、生没年不明)と謀り、「畠山を討ち取るために、一緒に鎌倉へ参りましょう!」と義興に誘いかけた。その話に乗った義興は矢口の渡しに到着した。