人災と天災で荒れていた中世に広まった末法思想と極楽寺院への思い (2/3ページ)
それが京都有数の観光地として今も健在な平等院である。中でも極楽浄土の具現化を意図した鳳凰堂を知らない日本人はいないだろう。平等院は道長が営んだ別荘を頼通が永承7年(1052)に寺院に建て替えたもの。翌年、平等院の中に阿弥陀如来が鎮座する鳳凰堂(阿弥陀堂)が落慶した。池の水面に鳳凰堂が浮かぶ様はまさに極楽浄土の光景といえる。本尊の阿弥陀如来像を扉や壁が囲み、法性寺と同じくそれぞれに9タイプの来迎図が描かれており「九品来迎図」と呼ばれている。焼失した法性寺の意思を受け継ぐように現代においてもなお荘厳な美しさを見せてくれている。
■奥州藤原氏の極楽浄土
同じ藤原でも奥州平泉(岩手県平泉市)の地に京の都に匹敵する栄耀栄華を誇った、奥州藤原氏は代々荘厳な極楽寺院を建立している。初代清衡(1056〜1128)の中尊寺金色堂、二代・基衡(1105〜1157)の毛越寺、三代秀衡(1122〜1187)の無量光院などである。
最も有名な中尊寺金色堂は本尊・阿弥陀如来像を初めとする仏像群、それを囲む壁や天井と余すところなく金で装飾されている。「阿弥陀経」によると、極楽浄土には金銀、水晶、あらゆる宝石が敷き詰められているという。姿形だけではなく黄金による極楽の再現は、金の産地であり「黄金楽土」と呼ばれた平泉の栄華がわかる。毛越寺は円仁によって建立された名刹だったが後に荒廃し基衡が久寿3年(1156)に大伽藍を建てた。こちらもまた金銀を散りばめた豪奢なものだったという。有名な「浄土庭園」は当時の遺構として学術的価値が高い。奥州藤原氏の最盛期を築いた藤原秀衡の無量光院は現在は存在せず跡地から偲ぶのみだが、平等院を模したものだと言われている。その模倣は徹底しており、庭園の構造・構成は、建物や池の位置に至るまで、平等院と酷似していたことが明らかになっている。
極楽寺院の中でも中尊寺金色堂は世界遺産にまで登録されるまでのクオリティを誇る。これら極楽寺院には、貴族たちの末法の恐れと極楽への切なる願いが込められている。しかし、これらを実際に創ったのは庶民である。貴族が寺院で観想念仏を修し、臨終行事を行なって安らかに往生する一方で庶民は苦しい生活を強いられてきた。彼らの臨終はどのようなものだったのか。