平家が滅んだのが「壇ノ浦」なのはなぜ?他の場所ではダメだった?そこに至るまでの経緯をたどる (3/5ページ)

Japaaan

木曽義仲(Wikipediaより)

敗走中に平家方の梶原景時に命を救われ何とか安房国へ逃れた頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤を味方に付けると、これをきっかけに南関東の有力豪族を次々と従え関東を制圧し、相模国鎌倉を拠点として武家政権の整備に着手します。

この事態を重く見た清盛は孫の維盛を総大将とする遠征軍を東海道に派遣しますが、富士川の戦いで敗北、形勢が徐々に逆転していきます。

そのような中で1181(治承5)年に清盛が病死し、棟梁の座は三男の宗盛が引き継ぎますが、1183(寿永2)年の倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲の軍勢に大敗、京へ進撃する義仲軍を防ぐことができず安徳天皇と三種の神器を伴って西国へ落ち延びます。

その後、頼朝の命を受けた弟の範頼、義経が京へ進軍し義仲を滅亡させると、平家軍は一の谷で源氏軍を迎え撃ちますが義経の奇襲に遭い敗退、讃岐国屋島へと逃れます。

一ノ谷の戦いの後、頼朝は範頼に北条義時、三浦義澄、比企能員、和田義盛ら3万騎の軍勢を与え、山陽道を通って九州へ渡り平家軍の背後を封鎖するように命じます。

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