平家が滅んだのが「壇ノ浦」なのはなぜ?他の場所ではダメだった?そこに至るまでの経緯をたどる (4/5ページ)

Japaaan

源頼朝(Wikipediaより)

範頼軍は強力な水軍を持つ平家軍の抵抗に遭い関門海峡を渡ることができず、折からの飢饉により兵糧の確保にも苦心しますが、1185(元暦2/寿永4)年1月、平家に反抗する豊後国の緒方惟栄ら地方豪族を味方に付け九州へ渡ることに成功すると、翌月には葦屋浦の戦いで平家方の原田種直を撃破し、筑前国の太宰府を押さえます。

平家の滅亡

一方、義経は1185年2月、屋島の戦いにて平家の拠点を奇襲により攻略、義経軍に追われた平家軍は範頼軍により九州への退路を遮断され、やむなく壇ノ浦に面した長門国彦島へ撤退します。

平家軍は彦島に追い詰められましたが、それでもいまだに強力な水軍500艘余りを有していました。義経はそれに対抗するために摂津国の渡辺水軍や伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍など約840艘を味方に付け進軍します。

そして、3月24日正午頃、東から壇ノ浦へ攻め入る源氏水軍に対し、平知盛率いる平氏水軍は彦島を出て迎え撃ち、壇ノ浦の戦いが始まりました。

「平家が滅んだのが「壇ノ浦」なのはなぜ?他の場所ではダメだった?そこに至るまでの経緯をたどる」のページです。デイリーニュースオンラインは、平家壇ノ浦の戦い鎌倉時代平安時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る