庭でチャンバラしていたあの子たちは?義時と比奈の子・北条重時の生涯をたどる【鎌倉殿の13人】 (3/4ページ)

Japaaan

栗原信充筆

兄の朝時が泰時と不仲であったのに対し、重時は泰時と仲がよく、その死後も泰時の子孫たちを支えました。

寛喜2年(1230年)に京都の治安を守る六波羅探題北方に任じられて上洛。以後17年にわたって任務を遂行します。

熱心な浄土宗徒であったことが影響してか、民を休んじ公平公正に努める政治姿勢が鎌倉幕府にも大きな影響を与えました。

縁者が不祥事を起こせば直ちに六波羅へ突き出すなど、御家人に対しては綱紀粛正を徹底。お陰で在京御家人による乱行事件は減少したと言います。

仁治3年(1242年)に泰時が没すると六波羅探題南方を務めていた北条時盛(ときもり。時房の子)が鎌倉へ帰ったため、最後の5年間は重時ひとりで六波羅探題を切り盛りしたのでした。

鎌倉への復帰と晩年

宝治元年(1247年)に三浦一族を滅ぼした第5代執権の北条時頼(ときより)の要請によより、重時は鎌倉へ戻ります。

叔父の北条時房(演:瀬戸康史)が亡くなって以来空席になっていた連署(れんしょ。副執権)となって時頼を補佐しました。

その後、建長8年(1256年)に出家して極楽寺(鎌倉市極楽寺)で隠居。連署は異母弟の北条政村(まさむら)に譲ります。

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