二人は親子?それとも…源頼朝に仕えた雑色の鶴太郎・鶴次郎を紹介【鎌倉殿の13人】 (4/7ページ)

Japaaan

頼朝の異母弟)・太田広綱(おおた ひろつな)・大内義信(おおうち よしのぶ)ら源氏一族を国司に任じるよう、朝廷に根回ししておいてほしい」との旨が書かれています。

平頼盛はかつて頼朝の命乞いをした池禅尼(いけのぜんに。清盛の継母)の子で、平家の都落ち後に不遇を託ちていたのでした。

こちらも恩人の将来がかかった大事な書状ですから、滅多な者ではなく気心の知れた鶴太郎が適任だったのでしょう。

鶴次郎、走り継ぐ

以上で鶴太郎の出番(名前が出る場面)は終わり。その役目は鶴次郎に受け継がれた?ようです。

鶴次郎のデビューは文治元年(1185年)12月16日。京都へ使いに向かっていた黒法師丸(くろほうしまる)が鎌倉へ戻ってきて言いました。

「道中、駿河国岡部宿で相棒の浜四郎(はましろう)が急病で倒れて寝込んでしまい、起き上がることもままなりません。それで務めが果たせないので帰って来ました」

とのこと。仕方がないので頼朝は鶴次郎と生沢五郎(いくさわ ごろう)を同行させ、3人で再び京都へ向かわせたということです。

上洛の途上でへばってしまった浜四郎。その後どうなったのだろうか(イメージ)

果たして3人は12月26日に京都へ到着、明けて文治2年(1186年)1月7日に帰ってきました。

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