無実の罪で滅ぼされた畠山重忠の末子・畠山重慶にも謀叛の疑い…その運命やいかに【鎌倉殿の13人】 (2/6ページ)
生け捕りを命じられた長沼宗政
未尅。日光山別當法眼弁覺進使者申云。故畠山次郎重忠末子大夫阿闍梨重慶籠居當山之麓招聚窂人。又祈祷有碎肝膽事。是企謀叛之條。無異儀歟之由申之。仲兼朝臣以弁覺使者申詞。披露御前。其間。長沼五郎宗政候當座之間。可生虜重慶之趣。被仰含之。仍宗政不能歸宅。具家子一人。雜色男八人。自御所。直令進發下野國。聞及郎從等竸争。依之鎌倉中聊騒動云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)9月19日条
時は建暦3年(1213年)9月19日。午後2:00ごろ、日光山別当(現:日光二荒山神社の長官)である法眼弁覚(ほうげん べんかく)の使者が鎌倉御所へやってきました。
曰く「亡き畠山次郎殿の末子である大夫阿闍梨重慶が、寺の麓にならず者たちを掻き集め、何やら熱心に祈祷しております。これはきっと鎌倉殿に対して謀叛を企んでいるに違いありません」とのこと。
取次役の源仲兼(みなもとの なかかね。源仲章の弟)はこれを将軍・源実朝(さねとも)に報告。なるほど謀叛か……無実の父を殺されたのですから、謀叛を起こされる心当たりは十分すぎるほどです。
「果たして事実であるのか、仮に事実であるなら何とか説得して、無用の流血を避けられぬものか……そうだ」
実朝はちょうどその場にいた長沼五郎宗政(ながぬま ごろうむねまさ)に重慶を鎌倉へ連行するように命じました。