無実の罪で滅ぼされた畠山重忠の末子・畠山重慶にも謀叛の疑い…その運命やいかに【鎌倉殿の13人】 (5/6ページ)
榛谷重朝、重忠の従弟)の所領は五条局(ごじょうのつぼね。詳細不明、藤原定家の母とは別人物)にくれてやり、中山四郎(なかやま しろう。中山重政、重忠の子)の土地は下総局(しもうさのつぼね。千葉介常胤の孫娘)にやっちまった。
ちょいと訊きてぇンだが、その女どもが畠山征伐で一体何をしたってンだ?命を懸けて斬った張ったするよりも、鎌倉殿と乳繰り合ってる方が恩賞に与れるってぇなら、いざ有事に誰がアンタを護るンだ?おいてめぇこの野郎、口があるなら云とか寸とか言いやがれ……!」
まぁ目玉を大きくひン剥いて、言うも言ったり悪口雑言。どう見ても逆ギレですが、およそ日ごろの愚痴をぶちまけ三昧。解らなくもありませんが……。
あまりの口汚さは『吾妻鏡』にも記録しきれず、取次役の源仲兼はうんざりして出て行ってしまいました。
「……けっ!」
御簾の向こうにはまだ実朝がいるのかいないのか、虚空に叫んでもしょうがねェ……と仕方なく宗政も帰宅したと言うことです。
終わりに・許された宗政そんな事があって、宗政は謹慎を命じられてしまいました。謹慎くらいで済んでよかったですね。
「あンだよ兄者、別にいいって……」
「そうは行かん。いいから御所(実朝)に陳謝申し上げるのじゃ!」
依小山左衛門尉朝政申請。舎弟長沼五郎宗政被宥御氣色。及出仕云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)閏9月16日条
【読み下し】小山左衛門尉朝政の申し請けにより、舎弟長沼五郎宗政が御気色(みけしき)をなだめらるに及び、出仕す云々。
実朝を罵倒してから20日が過ぎた閏9月16日。宗政は兄・小山朝政(おやま ともまさ)に連れられて御所へ謝りに行くのでした。