和田義盛が源実朝におねだりしたものとは?『吾妻鏡』を読んでみると…【鎌倉殿の13人】 (3/5ページ)
内々有御計事。暫可奉待左右之由蒙仰。殊抃悦云々。
※『吾妻鏡』承元3年(1209年)11月27日条
「のぅ、相州(北条義時)よ。和田の件、何とかしてやりたいのじゃが……」
何とか義盛の願いを叶えてやりたい実朝だが……(イメージ)『國文学名家肖像集』より
「なりませぬ。亡き大殿(頼朝)からの慣例にございますれば、ひとたび例外を設ければ、和田殿一人では収まらぬようになります」
「そうですよ。和田殿は三浦一族の長老。これ以上力を持たせれば平六殿も抑えが利かず、鎌倉を脅かしかねません」
「しかしなぁ、やはり何とかならぬかのぅ……」
そこで実朝は義盛に「なかなか難しいが、どうにか望みを叶えてやりたいと思っておる。もう暫く待っていてくれないか」と内々に伝えました。
実朝から優しい言葉をかけられ、義盛の喜ぶまいことか。「鎌倉殿の御心さえ左様なれば、きっとお言葉に適いましょうぞ」と事態の進展を心待ちにするのでした。
ついに諦めた義盛、残念がる実朝……が、ウブな実朝が政子&義時の老獪姉弟に太刀打ちできるはずもなく、いたずらに歳月が流れるばかり。
最初のおねだりから2年半余が経ち、年の瀬も迫る建暦元年(1211年)12月20日。義盛はついに上総国司を諦めたのでした。
和田左衛門尉義盛上総國司擧任所望事。已断餘執訖。可返給彼款状之由。以子息四郎兵衛尉相觸廣元朝臣。先日進置御前之上。不能左右之趣。乍令返答。即以披露之。太不叶御意趣。暫可相待之旨。被仰含之處。今及此訴。偏是奉輕上計之所致也云々。