和田義盛が源実朝におねだりしたものとは?『吾妻鏡』を読んでみると…【鎌倉殿の13人】 (4/5ページ)
※『吾妻鏡』建暦元年(1211年)12月20日条
「……分かりました。きっと鎌倉殿は、それがしと尼御台・相州殿の板挟みになって苦しんでおいでじゃったろう。誠に申し訳ないことをしてしまった」
上総介への任官を断念した和田義盛。義時らがいる限り、実朝が板挟みで苦しむだけだから……(イメージ)歌川国芳筆
そこで四男の和田四郎兵衛尉義直(しろうひょうゑのじょう よしなお)を派遣して、嘆願書を差し戻してもらうよう申し出ます。
しかし、そんな義盛の申し出をしって実朝はがっかり。確かに時間はかかっていて申し訳ないけど、本当に叶えてあげたかったのに……思わず愚痴をこぼしました。
「そうか……大江にも骨折りしてもらっていたのだが、やはり私には無理だと見限られてしまったようだ。無理もないが、やはり信じて待っていて欲しかったな……」
「自分から言い出しておきながら、あっさり取り下げるとは……誠に御所を軽んじた振る舞い、和田殿にも困ったものだ」
「相州よ、もう言うでない」
ずっと上総国司の件を阻んでいた張本人がよう言うわ……苦虫を嚙み潰したような実朝の顔が目に浮かびます。
終わりにこの一件より義盛と北条氏の間にわだかまりが生じ、やがて建暦3年(1213年)に和田合戦が勃発。義盛はじめ和田一族は滅ぼされてしまうのでした。