そんなに嫌?鎌倉御家人・北条通時(義時の孫)が仕事サボりたさに並べた言い訳がコチラ (2/6ページ)

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※北条義時には6人の男児がいますが、長男の北条泰時(やすとき。母は阿波局)と有時を除いた4人は前後の正室から生まれました。

(次男の北条朝時と三男の北条重時は前室・姫の前から、五男の北条政村と六男の北条実泰は後室・伊賀の方から誕生)

兄弟は兄の北条時基(ときもと。駿河太郎)・弟の北条兼時(かねとき。駿河六郎)・有助(ゆうじょ。僧侶、佐々目僧正)・北条兼義(かねよし。伊具八郎)などがいます。

有時が陸奥国伊具郡(現:宮城県角田市・丸森町)に所領を有したため通時らは伊具を称し、やがて伊具流(いぐりゅう)北条氏と呼ばれるようになりました。

斎時には北条時邦(ときくに。左近将監)という子がおり、また末弟の兼義には子の北条宗有(むねあり。越前守)・孫の北条有政(ありまさ。右近大夫将監)がいたものの、いずれも元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡に殉じて討死しています。

随兵だけは絶対に嫌だ!1ヶ月にわたる闘い

さて、そんな北条通時が仕事をサボ……もとい辞退するべくゴネにゴネたのは鎌倉時代も中期の弘長元年(1261年)7月2日。

毎年8月15日に執り行われる鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ。現代の例大祭)に際して、随兵(ずいひょう。鎌倉殿の護衛)を任じられた時のことです。

「え~……すみませんが私、流鏑馬神事の所役もやってるんで、掛け持ちは厳しいですよ。随兵は勘弁して下さい」

……駿河五郎 三浦介六郎左衛門尉
各勤流鏑馬之間。

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