覚えてますか?源頼朝に所領を没収された馬面(うまづら)中原知親の意外な一面【鎌倉殿の13人】 (4/5ページ)
史大夫朝親ト云者アリケリ、学生ナリケレハ此彼ニ文師ニテアリキケリ、若クテ文章生ニテ有ケリ、事ノ外カホノ長リケレハ、世人長面進士トソ云ケル、世ノ常ナラスオコヒタルモノ也、或時知タル僧ニ輿車ヲ借テ物ヘユキケル程ニ、車ヒキカリケレハ烏帽子ヲ取テ手ニモチタリケリ、サテヒカレ行程ニ法性寺殿御アリキニ参会テマトヒオリケル程ニ、彼モチタル烏帽子ノ事ツヤツヤ忘ニケリ、下テ後ハ小家ナトニモ入ルヘキニ、我ハ文殿ノ衆ニテオノツカラ御書沙汰ノ時ハ参レハトテ、大路ニウスクマリ居タリケリモトトリハナチタル者ノ右ノ手ニ烏帽子サケタリ、オホカタ御前ノ御随身オトカイヲハナチテ咲ヒケリ、
※『十訓抄』より
【意訳】史大夫朝親(知親)という者は学生(がくしょう)として名高く、あちこちで学問を教えていた。
若くして文章生(進士)となるほど優秀であったが、ことのほか顔が長かったので、人々は長面進士とあだ名している。
ある時、輿車(こしぐるま)を借りて外出中、その天井が低かったので頭がつっかえないよう烏帽子を外していた(どうせ外からは見えないのだから、問題なしと判断したのであろう)。
するとそこへ法性寺殿(ほっしょうじどの)こと主君の藤原忠通(ふじわらの ただみち)がやってきたので、烏帽子を脱いでいることも忘れて腰から飛び出してしまったのである。