文豪・石川啄木の墓はなぜ北海道にある?その謎と悲劇の歌人の生涯を追う【後編】 (3/4ページ)

Japaaan

『一握の砂』、そして病

それでも、歌人としての才能があった啄木は、この時期に出版社・東雲堂との契約も取り付け、1910年には24歳で代表作『一握の砂』を発表しています。

しかし、それでも一家を養っていくには足りず、困窮したままでした。啄木は1日でも早く貧乏生活に別れを告げようと夜も働きますが、1911年には慢性腹膜炎を患い、思うように働けなくなります。

釧路の町にある石川啄木の歌碑

また、同年7月には妻・節子が肺尖カタル(肺尖部の結核性病変で肺結核の初期症状)を発症し、生活はさらに苦しくなりました。

12月には啄木も腹膜炎と肺結核を患って、入院を余儀なくされます。最期は自宅で療養することになったものの、貧困のため医者にも診てもらえず薬も買えない状況でした。

そうして翌年、肺結核を患っていた母・カツが3月7日に死去すると、その後を追うように4月13日にやはり肺結核で亡くなりました。享年26歳。

遺骨が北海道へ

さて、『一握の砂』に続く彼の第2歌集である『悲しき玩具』が出版されたのは、葬儀から2か月後のことでした。

節子は『悲しき玩具』が出版された後、啄木とカツの遺骨を等光寺に預け、ふたりの幼子を連れて函館に移住します。

それから1年後の1913年、急に肺尖カタルの症状が重くなった節子は、東京に置いてきたままの夫と義母の遺骨が気になり、引き取りたいと訴えます。

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