「どうする家康」伊賀&甲賀の忍び対決が魅せた第6回放送「続・瀬名奪還作戦」振り返り (3/6ページ)

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そして与七郎はこの時の武功につき、元康より感状を賜わったと言います。

今度鵜殿藤太郎其方被討取、近比御高名無比類候。我等別而彼者年来無沙汰候。散心霧弥祝着申候。委細左近・雅楽助可申候。恐々謹言
二月六日 松蔵元康(花押)
伴与七郎 参

※「鵜殿系図」伝巻之九

【意訳】こたび、そなたが鵜殿藤太郎(長照)を討ち取ったことは近ごろ比べもののない功名である。我らはかねて鵜殿と対立しており、心の霧が晴れて実にめでたい。恩賞については松井忠次(左近)と酒井正親(雅楽助)から伝えさせる。以上、謹んで申し上げる。

史実ではこれっきりの活躍ですが、せっかくなので大河ドラマではもっと暴れ回って欲しいところです。

服部半蔵の武功と、育まれる仲間たちとの絆

いっぽう、半蔵も負けてはいません。『寛政重脩諸家譜』によると、宇土城(上ノ郷城)攻めに際して伊賀忍び60~70名を率いて城内に潜入。こちらも武功を立てました。

服部半蔵、16歳の奮闘(イメージ)

正成 半三 或は半蔵 石見守 母は某氏。

父に継で東照宮につかへたてまつり、三河国西郡宇土城夜討の時、正成十六歳にして伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。これを賞せられて御持鎗 長七寸八分■鎬 を拝賜す……

※『寛政重脩諸家譜』巻第千百六十八 服部氏 服部

劇中では寄せ集めの40名(ほとんど戦力外)という描写でしたが、実際にはちゃんと精鋭を率いて戦ったのです。

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