「どうする家康」よく言った!本多正信が代弁する民の声。第9回「守るべきもの」振り返り (2/7ページ)
彼の暗殺(森山崩れ)によって、松平家は次第に傾いていく。随念寺蔵
……かの彌七は父大蔵唯今誅せらるゝ事とやおもひけん。 清康君の立給ふ御うしろにはしり寄て。御眉先より左の脇の番をかけ。たゞ一刀に切付たり。鬼神をあざむく英傑もあえなくうたれて倒れ給ふ。……
※『東照宮御実紀』巻一「阿部弥七弑清康」
【意訳】阿倍弥七(あべ やしち)は父の阿倍大蔵定吉(おおくらさだよし)が討たれたと誤解し、清康の背後に駆け寄って一刀に斬り殺してしまった。鬼神のごとき英雄のあまりにあっけない死である。
……十四年彌生のころ御家人岩松八彌何のゆへもなく。御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ迯いでたり。(隣国より頼まれて刺客となりしといふ。)……
※『東照宮御実紀』巻一 天文十三年-同十六年「天文十四年岩松八彌傷廣忠」
【意訳】天文14年(1545年)3月ごろ、家臣の岩松八彌(いわまつ はちや)が何の理由もなく広忠の御股(下肢)を一刀に突き、場外へ逃亡した。隣国≒織田家と内通して刺客を引き受けたと言われる。
ただし広忠が亡くなったのは天文18年(1549年)3月6日。死因は病死とされます。
後世の編纂物である『岡崎領主古記』と『三河東泉記全』では片目八彌(岩松八彌)によって天文18年(1549年)に殺されたと伝えられました。
暗殺未遂と病死がごっちゃになったようですが、大河ドラマではこちらの説を採ったものと考えられます。