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義満は明(当時の中国)との交易に伴う利益を重んじ、皇帝から「日本国王」に封じてもらう朝貢貿易に甘んじていた。
ところが、義持は、彼を新たな日本国王に封じるという明の永楽帝の使者の弔意だけ受け、朝貢貿易については拒絶。その後も明からの使者に会わず、ついに両国は国交断絶した。
このように義持の治世は父の時代の反動政治といわれるが、その後、南朝の残存勢力(コラム参照)や父の時代に親王に擬せられた弟の義嗣の挙兵と苦悩が続いた。
応永二五年(1418)正月、京の神護寺に幽閉した義嗣を殺害、ようやく家督問題に完全決着をつけた義持は同三〇年(1423)には、一七歳だった嫡男義量へ将軍職を譲った。
ところが、同三二年(1425)に、その五代将軍義量が病死したことで計算が狂い始めたのだ。結果、正長元年(1428)正月に義持が四八歳で亡くなるまで将軍は空席となった。
義持が後継を決めずに死去し、六代将軍がくじ引きで決められたこともそうだが、三年間、将軍が不在だったというのも異常事態だ。
それではなぜ、義持は後継を決めなかったのか。
まず義量が死去した際、まだ一九歳だった彼にも、父の義持にも、後継となる男子がいなかったこと。次に義持の正室や側室との間にまだ男子誕生の可能性があったことだろう。
事実、義持は石清水八幡宮(京都府八幡市)の社前で男子出生の可否をくじで占って「吉」と出た日の夜、男子誕生の夢を見て、それを神託だと確信。よって猶子(事実上の養子)をもうけなかったという。
義持の知恵袋的存在だった醍醐寺の僧、満済准后の日記に記載される話だから事実だろう。つまり、信心深い義持がこの神託を信じ、必ずや男子をもうけることができると確信していたわけだ。こうして将軍空位のままの政権運営が続いた。
しかし、正長元年正月七日、義持は入浴中に尻にできた傷を化膿させ、細菌が体中にまわる敗血症の症状を呈し、命の危険が迫った。そこで再び将軍後継問題が幕府の最重要課題に浮上したのだ。
しかし、義持が一向に後継指名する素振りすら見せないことに焦った幕府の管領をはじめとする重臣らは満済にすがった。