「どうする家康」弱き主君は害悪、滅ぶが民のため。武田に従う?第16回放送「信玄を怒らせるな」振り返り (5/8ページ)

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信玄の「嫡男」・「武田」四郎勝頼について

武田勝頼。高野山持明院 蔵

戦国最強の遺伝子を受け継ぐ信玄の嫡男・武田勝頼(演:眞栄田郷敦)が初登場。武田ファンにとっては大歓喜の瞬間でした。

武田贔屓の筆者としても嬉しい限りですが、残念ながら勝頼は嫡男(正室の子)ではありません。また劇中(源三郎の帰還)時点では武田の苗字も名乗っていません。

勝頼は信玄と側室・諏訪御料人(すわごりょうにん。信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘)の間に生まれた庶子。成長しても武田は称さず、諏訪四郎(すわ しろう)と呼ばれました。

長兄で嫡男の武田義信(よしのぶ)が謀叛の疑いで自害させられ(永禄8・1565年)、次兄の海野信親(うんの のぶちか。竜芳)は盲目ゆえ若くして出家。

三兄の武田信之(のぶゆき)は天文22年(1553年)ごろ既に夭折しており、義信の死をもって初めて勝頼が後継者候補とされたのでした。

しかし信玄は死に際して「武田の家督は武王丸(たけおうまる。勝頼の嫡男、武田信勝)に継がせ、そなたは後見せよ」と遺言します。

果たして元亀4年(1573年)4月に信玄が亡くなると勝頼は信玄の死を隠し(表向きは隠居として)、自分が家督を継いで武田の苗字を称しました。

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