将来を嘱望されながら”セリフ死”してしまった織田信忠(信長嫡男)…その生涯を振り返る【どうする家康】 (2/5ページ)

Japaaan

天正5年(1577年)1月に正四位下へ昇進しますが、文治のみならず武略においても将器を発揮。同年10月には謀叛を起こした松永久秀(まつなが ひさひで)を大和国信貴城(信貴山城。原文ママ)に攻め滅ぼし、10月13日に京都へ凱旋します。

自害する松永久秀。歌川国芳「太平記英勇傳 松永大膳久英」自害に際して、信長の所望していた平蜘蛛茶釜を叩き割っている。

この軍功により従三位中将となり、晴れて公卿の仲間入りです。

【参考・当時の位階】
正一位⇒従一位⇒正二位⇒従二位⇒正三位⇒従三位(今ココ!)⇒正四位上⇒正四位下⇒従四位上⇒従四位下⇒正五位上⇒正五位下⇒従五位上⇒従五位下……(六位以下略)

しかし信忠は「出先で父の許しを得ぬまま官位(位階と官職)をお受けするのは、主従そして親子の道に反します」と一度は辞退。

それでも勅使が是非にと言うので、信忠は信長に伺いを立ててから慎んで受けたそうです。この考え深い態度に信長も末頼もしく思ったことでしょう。

天正10年(1582年)2月には甲斐の武田勝頼(演:眞栄田郷敦)を討つべく兵5万騎を率いて信州高遠城を攻略。3月には勝頼を滅ぼし、信濃・甲斐・駿河・上野など武田領をことごとく平定しました。

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