どうか殿下の陣羽織を!徳川家康が豊臣秀吉にねだった理由とは【どうする家康】 (3/6ページ)

Japaaan

秀吉自ら、家康に陣羽織を着せてやる

陣羽織を着る秀吉。右田年英「英雄三十六歌撰 羽柴秀吉」

……このとき諸大名皆並居て謁見す。秀吉いはく。毛利浮田をはじめ承られ候へ。われ母に早く逢度思へば。  徳川殿を明日本国に還すなりとて。又  君にむかひ。今日は殊に寒し。小袖を重ねられよ。城中にて一ぷく進らせ馬の餞せん。御肩衣を脱し給へといへば。秀長長政御側によりきて脱す。君そのとき殿下の召せられし御羽織を某にたまはらんと宣へば。秀吉これはわが陣羽織なり。進らすることかなはじといふ。  君御陣羽織とうけたまはるからは。猶更拝受を願ふなり。  家康かくてあらんには。重ねて殿下に御物具着せ進らすまじと宣へば。秀吉大によろこばれ。さらばまいらせんとてみづから脱て着せ進らせ。諸大名にむかひ。唯今  家康の秀吉に物具させじといはれし一言をおのおの聞れしや。秀吉はよき妹婿を取たる果報ものよといはる。この日諸大名の陪従多しとて秀吉奉行人を咎れば。かねて少く連候へと申付しにと申せば。秀吉うち笑ひ。  徳川殿御聞候へ。このところよりわづか清水へゆくにも。人数の三万か二万と申されしとぞ。……

※『東照宮御実紀附録』巻五「秀吉之権略」

さて、大坂城では各地から参集した諸大名が所狭しとひしめいています。秀吉は彼らに言いました。

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