どうか殿下の陣羽織を!徳川家康が豊臣秀吉にねだった理由とは【どうする家康】 (5/6ページ)

Japaaan

翌年、駿府城にて

秀吉から陣羽織を賜わった家康(イメージ)

……次の年駿城にて井伊直政。本多正信に。去年秀吉が許にて我に陣羽織を所望せしめしは。  家康が一言にて四国中国の者を鎮服せしめん為なり。次に近所へゆくにも二万か三万かといひしは。兵威もて我をおどさんとてなり。例の秀吉が権詐よと仰られしとぞ。はたして其事十日を過ずして。四国中国はさらなり。しらぬひや筑紫のはてまでもいひ傳へて。関白の兵威の盛なるを称しけり。又あるときの仰に。わが上京せしとき秀吉ひそかに旅館に来り我にむかひ三度まで拝礼す。その事しりし秀長。浅野長政。加々爪某。茶屋四郎次郎四人には誓紙させ他言をとゞめしときく。かく諸大名を出し抜て事をはかる人には。中々力押にはなりながたし。よくよく時節を待て工夫あるべしと仰せありしとぞ。(續武家閑談。)

※『東照宮御実紀附録』巻五「秀吉之権略」

「……という事があったのじゃ」

明けて天正15年(1587年)、家康は駿府城で井伊直政と本多正信に話します。

「はぁ」「左様にございましたか」

「去年のパフォーマンスは、わしが従えば四国や中国の連中も殿下に従わざるを得ないと思わせるためじゃ。次の近所へ行くにも2~3万とかいうのは、わしに対する脅しじゃろうな」

「まぁ」「そうでしょうね」

相変わらず策略に長けた猿よ……果たしてあの後、四国中国はもちろん、九州にいたるまで秀吉の武威は知れ渡ったのでした。

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