「どうする家康」今までずっと、ありがとう!そして新天地へ…第37回放送「さらば三河家臣団」振り返り (8/11ページ)
「ふーん、そなたでも我が子は可愛いのか」
これはかつて築山殿事件に際し、忠次が家康の嫡男・松平信康(細田佳央太)を弁護しなかったことを皮肉っているのです。
わしの息子は守ってくれなかったくせに、自分の息子は優遇せよとわしに言うのか……家康はずっと怨み続けていたと言います。
果たしてそれが嘘か真か。家康の死後、酒井家が破格の加増を遂げたことが、一つのヒントと言えるでしょう。
忠次は慶長元年(1596年)に70歳で亡くなりますが、最後に「海老すくい」を披露する機会があるのかどうか、楽しみに見守ろうと思います。
家康、江戸をつくるの巻往時の江戸城。お江戸は一日にしてならず(画像:Wikipedia)
さて、湿地ばかりの吹きっさらしな江戸へやってきた「我らが神の君」。かつて穢土(えど。けがれた大地)と蔑まれてはいましたが、よく考えれば秀吉が発展させた大坂だって元は湿地ばかりでした。
つまりこれは扱いにくい湿地帯をどのように開拓するかで家康の力量を見定めた、あるいは家康なら東国をも大きく発展させられると見込んだからこそ……とも言えるのではないでしょうか。