本当にイカサマ師だったのか?本多正信とはどんな人物?その生涯をたどる【どうする家康】 (3/5ページ)

Japaaan

関ヶ原・大坂の陣でも活躍

「徳川二十将図」より、本多佐渡守(正信)

やがて慶長5年(1600年)に会津の上杉景勝を討伐するべく家康が兵を挙げるとこれに従軍。下野国小山(栃木県小山市)まで来たところで、三成らが上方で挙兵した報せを受けました。

さぁどうするか(このまま上杉を討つか、それとも引き返して三成を討つか)……家康は井伊直政・本多忠勝そして正信を呼んで話し合います。

結果、軍を返して三成を討つことに。家康率いる本軍は東海道を通り、嫡男の徳川秀忠には別動隊を預けて東山道から進軍。正信は秀忠の補佐につきました。

しかしこの別動隊は道中で真田昌幸の抵抗に遭い(第二次上田合戦)、とうとう決戦に間に合わない失態を犯してしまいます。秀忠を処罰せんと怒り狂う家康を、正信は何とかなだめたとか。

ともあれ関ヶ原の合戦が終わり、三成らに与した者たちを処罰する中、薩摩の島津義久・島津義弘兄弟がいつまでも上洛しません。

このままでは、島津討伐に九州まで遠征せねばならなくなってしまう……それを避けたい正信は両家の間を奔走し、これまた何とか島津家から謀叛せぬよう起請文を提出させました。

その後、秀忠をさんざん手こずらせた真田昌幸についても、本多忠勝や真田信之らと共に助命嘆願。

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