本当にイカサマ師だったのか?本多正信とはどんな人物?その生涯をたどる【どうする家康】 (4/5ページ)
それで何とか死一等が減じられ、高野山への配流となります。
かくして戦後処理が終わると関東へ戻り、内藤清成と共に都市整備など徳川政権の中枢を担いました。
慶長7年(1602年)5月、常陸の佐竹義宣が改易に処されると、正信は大久保忠隣(忠世嫡男)と共に水戸へ赴いて国内の混乱収拾に務めます。
そして慶長19年(1614年)に起きた大坂冬の陣では再び秀忠の補佐として従軍、11月11日に京都二条城で軍議に出席。正信と嫡男の本多正純、成瀬正成と安藤直次らと共に任務を遂行しました。
翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にも従軍、5月7日の最終決戦においては家康の側に従います。
もう後のない豊臣方の猛攻はすさまじく、乱戦の中で「背後の部隊が撃破された」という急報が陣中を騒がせました。
「動じるな。前方の戦さに勝っておる時はそのまま進め。後ろに気をとられては、勝てる戦さも勝てなくなるぞ!」
叱咤の甲斐あって味方の混乱は収まり、ついに勝利を収めて豊臣家を滅ぼしたのです。この軍功により、正信は2万2千石に加増されました。
かくして正信は家康・秀忠の二代に仕え、乱世においては軍謀をめぐらせ、治世においては国政を司る両道ぶり。主君からは深い信頼を得て、臣下としてそれに応える様子は、まさに水魚の交わりと言えるでしょう。