日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【後編】 (4/5ページ)
1945年(昭和20年)12月17日、近衞の遺体を検死するGHQの憲兵(Wikipediaより)
ちなみに、東條英機も9月11日、戦犯として逮捕される直前にピストル自殺を図りますが失敗に終わっています。
武人でありながら自決に失敗するという醜態を晒した東條は、世間から「東條は腹の肉をつまんで銃を撃ったんだろう」などと揶揄されます。これに比して、五摂家筆頭の貴公子でありながら見事に自決を遂げた近衛の方が、ある意味で世間からは高く評価されました。
近衛の評価が戦後もあまり悪くなかったのは、この「潔く自決した悲劇の宰相」というイメージが強いからでしょう。しかし、昭和期末に昭和天皇が近衛のことを酷評していることが明らかになり、これがきっかけで彼への評価は大きく変わります。
現在では、「国民政府を相手にせず」の宣言で満州事変への対応に失敗して日中戦争の泥沼に足を踏み入れ、その後も陸軍の暴走を抑えられず、またアメリカとの関係も修復できないまま内閣を二度投げ出したとして、昭和の政治史に悪名を刻んでいます。
彼は名門望族・頭脳明晰・容姿端麗と三拍子揃っており、性格も決して悪くはありませんでした。それだけに国民からの期待も高かったのですが、非常時の国家のリーダーとしては致命的なことに思慮深いように見えて押しに弱く、そして行動が軽率でした。