日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【後編】 (2/5ページ)

Japaaan

サイパン島が落ちて日本が空襲の脅威にさらされ、いよいよ敗戦が現実味を帯びてくると、ここで「もう東條ではだめだ」という共通認識のもと、近衛が中心になって種々の和平工作が行われるようになったのです。

「和平工作」と「東條倒閣」はワンセットでした。倒閣には元駐英大使だった吉田茂、陸軍皇道派、海軍大将の小林躋造らが動き、重臣の岡田啓介もこれに呼応。近衛文麿の秘書である細川護貞は、東條暗殺も計画していました。

小林躋造(Wikipediaより)

ちなみに細川は、近衛がなぜ東條倒閣の時に目が覚めたように活躍できたのかについて、「痔」が原因だったと述べています。近衛は痔が悪い時は気力が全くなかったのですが、手術後は人が変わったようになったとか。

痔の手術がもっと早ければ戦争も避けられたし、体調が回復したからこそ和平工作に勤しむこともできたのだろう、と細川は説明しています。

こうして東條内閣は総辞職に追い込まれました。

戦後も大臣として交渉

その後は小磯国昭内閣を経て、鈴木貫太郎内閣によって終戦となります。

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