日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【後編】 (3/5ページ)
玉音放送が流れた1945(昭和20)年8月15日の二日後に内閣は総辞職し、後任の首相は初の皇族出身者である東久邇宮稔彦王となります。
ここで、近衛は副総理格である無任所相として入閣しました。
さすがにこの時の彼の入閣は風当たりが厳しいものでした。単なる名門出身で人脈が広いというだけで、何の功績もないどころか日本を泥沼の戦争に導いたのだから当然です。もはや、かつての人気は完全に失われていました。
それでも戦後処理では一定の役割を果たしており、国務大臣としてマッカーサーから憲法改正の検討を依頼されたりしています。
もっともマッカーサーは昭和天皇と個人的な信頼関係を築いていたので、近衛の存在は不要だったと言えるでしょう。
悲劇の自決近衛に、占領軍から逮捕指令が発せられたのは12月6日のことです。その出頭期限である12月16日の未明、近衛は自宅で青酸カリを飲み服毒自殺しました。享年54歳。
遺書には「僕は志那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、いわゆる戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受けることは耐え難い事である。」と書かれていました。