解任説も浮上!原辰徳65歳「愛と憎しみ」の巨人軍人生舞台裏 (3/6ページ)
88年、札幌・円山球場の“交通事故レベル”とまで言われた吉村(禎章)のあの大ケガがなかったら、彼自身も成績はもっと残った。巷ちまたで言われた“史上最低の4番”なんてヒドい言い方も、おそらくされていなかったはずですよ」(同)
原もまた、現役時代はケガに苦しんだ。86年9月24日の広島戦で、リリーフエース・津田恒実の渾身のストレートをフルスイングした際、左有ゆう鈎こ う骨こ つを粉砕骨折。痛みが残り、現役引退まで、この古傷に苦しめられた。
「原さんは、94年の開幕前にも左足のアキレス腱の部分断裂で離脱したが、キャリアに最も影を落としたのは、この手首の骨折。それでも、引退までに200本以上の本塁打を打ったわけだから、やはり一流です」(スポーツジャーナリスト)
実働15年の通算成績は打率2割7分9厘、1093打点。382本塁打。主要タイトルこそ、83年の打点王1回のみに終わったが、4番での出場試合数は川上哲治、長嶋、王貞治に次ぐ歴代4位に名を連ねる。
■東京ドームの引退試合で有終の美
95年10月8日、4番サードで先発出場した東京ドームでの引退試合では、自身のアーチで有終の美を飾っている。
「引退セレモニーでの“私の夢には続きがあります”はよく知られているところですが、原さんの古巣復帰は、実は藤田(元司)さんの推薦によるもの。入閣に3年かかったのは、長嶋さんとの間に遺恨があったからだとか」(前同)
その発端となったのは、引退の前年、94年9月7日の横浜戦。長嶋監督が4番の原に代えて、息子を送った“代打・一茂事件”だ。
「ひどくプライドを傷つけられた原さんは、長く根に持っていたそう。今でこそ、この一件にも笑って受け答えをするが、当時の怒りは相当なものだった。