石田三成はじめ有能ぞろい!豊臣政権を支えた5人の家臣「五奉行」の各奉行を一挙ご紹介【どうする家康】 (5/6ページ)

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秀吉死後、家康と三成が対立すると、長盛は西国の大名に西軍加担の文を送り、三成に味方する姿勢を見せます。

一方で家康に三成の状況を報告する密書を送っており、スパイとして暗躍していました

しかし、伏見城の戦いや関ヶ原の戦いでは、西軍として参加していました。戦後には出家して謝罪したものの改易。高野山に追放となりました。

高野山を出た後は、高力清長預かりとなるも、元和元年(1615)の大坂夏の陣では自らが烏帽子親を務めた長曾我部盛親の軍に与しました

息子の増田盛次は徳川軍から豊臣軍につくも討ち死に。長盛も戦後自害を命じられ、71歳で生涯の幕を閉じました。

財政担当・長束正家

五奉行の末席で主に財政を担当していたのが長束正家(なつか-まさいえ(演:長友郁真さん))です。

丹羽長秀に仕えていた正家は、丹羽氏が財務上の不正により減封処分を受けると、帳簿を証拠として提出し抵抗。これにより、高い算術能力を買われて秀吉の家臣となりました

豊臣政権では財政を一手に担い、豊臣氏の直轄地の管理や太閤検地の実施を行いました

正家は、兵糧の輸送に関わる奉行職である兵糧奉行を引き受け、天正14年(1586年)の九州平定や天正18年(1590年)の小田原征伐で活躍を見せます。

特に小田原征伐では、20万石の兵糧を問題なく輸送したほか、小田原周辺の米を3万石買い占め、小田原城を兵糧攻めにする働きを残しました。

また、朝鮮出兵でも兵糧奉行を務めました。

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