伊藤博文よりも「初代宰相」にふさわしい?明治初期の政治家・三条実美は隠れた大物政治家だった (2/4ページ)

Japaaan

新体制の中の三条と岩倉

大政奉還から王政復古までは二か月間の空きがありましたが、まだこの時明治新政府は体制が整っていませんでした。実質、まだ江戸幕府が政府として機能していたのです。

この時期、政治の中心的存在だったのはもちろん天皇であり、その下には摂政の二条斉敬、征夷大将軍の徳川慶喜、老中筆頭の板倉勝静がいるという構図でした。この時、誰が「宰相」だったのかは何とも言えません。

そして1867年12月9日に王政復古の大号令が出て、新政府が発足します。これに伴い摂関・将軍の職は廃止となり、かわりに総裁・議定・参与の三つの職が設けられました。

このうち、総裁に任命されたのは有栖川宮熾仁(ありすがわみやたるひと)親王です。議定は10名、参与は20名が任命されました。

熾仁親王は、かつて皇女和宮の許嫁でもあり、鳥羽・伏見の戦いでは東征大総督も務めた人物です。彼は総裁として、将軍と摂政の権限を引き継いだ形になったのでした。おそらく彼こそが、近代日本で初の宰相だと言っていいでしょう。

有栖川宮記念公園の有栖川宮熾仁親王の銅像

この時に副総裁だったのが、三条実美と岩倉具視です。

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