天皇が女官を裸にして相撲をさせたのが始まり!?古来からある「女相撲」の歴史【後編】 (4/6ページ)
人気だった女相撲
反面、女相撲は人気があったようで、天明5年(1785年)の『鎌倉山/女相撲濫觴』という資料には、胸を露わにした裸姿に回しを付けた女性力士たちが相撲をとっている姿が描かれています。
その後女相撲は、一時人気が落ちますが、盲人男性である「座頭力士」との取り組みが江戸で評判となり、安永年間(1772年 – 1781年)から寛政年間(1789年 – 1801年)にかけては、女相撲の特集をした黄表紙、滑稽本も流行しました。
大関・関脇などのシステムは男の相撲と同じでしたが、四股名には「姥が里」「色気取」「玉の越(玉の輿の洒落)」「乳が張」「腹櫓(はらやぐら)」など、変わった名前が多かったようです。
明治に入ってからは、男女の取り組み・女力士の裸体が禁止、シャツや水着を用いるようになりました。
女力士として頂点に上り詰めた若緑関
明治が終わり昭和になっても女相撲は続きました。昭和初期に大活躍した女相撲力士で、興行女相撲の最高位である大関を務めた「若緑」という力士がいます。
大正6年(1917)、山形県に生まれた若緑(本名:遠藤しげの)は、幼いことから力自慢だったそうです。