「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【中編】 (3/8ページ)
発掘により姿を現した「狂心の渠」(写真:wikipedia)
では、このような難工事を押し進めてまで築いた両槻宮の意義は何だったのでしょうか。
その謎を解く鍵は、当時の東アジア情勢にありました。この時期、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅による争いが激化し、互いに侵攻を繰り返していたのです。
三国(新羅、百済、唐)はそれぞれ倭国に使者を派遣しており、その情勢は斉明ら朝廷首脳部の知るところとなっていたのでしょう。
当時、倭国と朝鮮半島は密接な関係にあり、特に百済との結びつきは強固でした。劣勢に立たされた百済王・義慈の王子である扶余豊璋(ふよほうしょう)が、人質という名目で飛鳥に亡命してきたのも、皇極・斉明の治世の時期にあたります。
日本海を隔てていても、朝鮮半島の戦禍がいつ及ぶとも限りません。そのため、万一の事態に備えた防御施設の構築が必要でした。両槻宮は、飛鳥京の防衛を目的とした一種の山城として築かれたのです。