【べらぼう】史実では異なる佐野政言の切腹。世直大明神の「辞世の句」や社会的影響を紹介 (7/7ページ)
刃傷事件を起こしてしまった佐野家は改易(所領没収)となり、家屋敷も没収されてしまいます。しかし政言の遺産については遺族への相続が認められました。
血縁者の連帯責任は問われなかったものの、男児も兄弟もいなかかったため、佐野家は断絶してしまいます。
その後も佐野家を再興させる動きは何度かあったものの、結局ならぬままに武士の世は終焉を迎えたのでした。
政言
源之助 善左衛門 母は某氏。安永二年八月二十二日家を継、十二月二十二日はじめて浚明院殿に拝謁す。六年二月七日大番となり、七年六月五日新番にうつる。天明四年三月二十四日営中にをいて田沼山城守意知を傷け、意知これがために死するにより、四月三日切腹せしめらる。妻は村上肥前守義方が女。
家紋 丸に剣木瓜 丸に左の古文字
※『寛政重脩諸家譜』巻第八百五十二 藤原氏(秀郷流)佐野
今回は江戸城中で田沼意知を斬った佐野政言の最期について紹介してきました。
私怨からの乱心として処理されたものの、人々からは「世直し大明神」として持て囃された今回の刃傷事件は、田沼政権の没落を象徴する出来事となったのです。
※参考文献:
『史学 第57巻4号』慶應義塾大学三田史学会、1988年3月 『寛政重脩諸家譜 第5輯』国立国会図書館デジタルコレクション 中江克己『徳川将軍百話』河出書房新社、1998年3月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan