お盛んだった家康も利用?江戸〜昭和時代まで続いた色街「二丁町遊郭(駿府遊郭)」の栄華と消滅の理由 (2/4ページ)
時は慶長12年(1607年)、隠居した徳川家康が駿府に移住すると、それまで一万数千人程度だった人口が十万人規模に膨れ上がりました。
やはり「大御所様のお膝元」を慕う者は少なくなかったようです。
街が急拡大するには人の住む家をはじめ各種インフラを整備しなければなりません。
となれば仕事を求めて職人が集まり、自然と男女比の偏りが顕著になります。
駿府各所で遊女はもちろん、飯盛女(めしもりおんな)や湯女(ゆな)に至るまで、女性と見れば目の色変えて奪い合う始末。
挙句の果てには文字通りの奪い合い(暴力沙汰)も頻発し、駿府の治安はたちまち悪化してしまいました。
このままでは静かに老後を過ごせない……と思ったかどうか、事態を憂慮した家康は駿府から遊女たちの追放を命じたのです。
そこへやって来たのが伊部勘右衛門(いべ かんゑもん)。徳川家の鷹匠頭であり、また家康に鷹狩を指南する立場でした。
勘右衛門は家康に対して、遊郭の設置許可を求めます。
「遊女たちをきちんと管理すれば、奪い合いは起こりません。
