悲劇のヒーロー楠木正成、盟友・足利尊氏との宿命の戦いで散った忠臣の最期と“伝説化”の道【後編】 (3/7ページ)
それに対して公家衆は、賊軍と和解しようとした正成を侮辱した上、謹慎させてしまったのです。
建武3年の4月、尊氏は多々良浜の戦いで九州の支配権を手にし、光厳上皇から義貞討伐の命令書も頂戴して、京都を目指して進軍してきました。その兵数は十万を超し、義貞率いる官軍は惨敗を喫します。
これには朝廷も慌て、正成を呼び戻して尊氏を倒すように命じます。和睦もならず正攻法では勝ち目のない状況下で、正成は湊川(現在の兵庫県)で死を賭した戦いに臨むこととなったのです。
計略も無視され、死地に追い込まれた正成…湊川の地に出陣!
建武3年(1336年)の5月、迫り来る尊氏に手を焼いた朝廷は、謹慎させた正成を呼び出して尊氏迎撃の戦略を述べさせます。
「天子様は京都を離れて、比叡山にご避難下さい。足利軍を京都に誘い込み、ワシと義貞で敵の輸送路を断って兵糧攻めにすれば勝てます」
こうした正成の実利的な案に対し、武士を軽く見ていた公家衆は猛反対した挙句、彼の努力と貢献を踏みにじります。
「君は、二度も陛下に都落ちさせて権威を損なう気かね?」
「皇室が天の加護を受けているから、偉大なる朝廷は勝ったのだ」
その上、頼みにしていた後醍醐天皇までも彼らの言葉に乗ってしまいます。こうして正成は、士気も兵数も劣る状況下で、湊川で尊氏を迎え撃つことになったのです。