悲劇のヒーロー楠木正成、盟友・足利尊氏との宿命の戦いで散った忠臣の最期と“伝説化”の道【後編】 (6/7ページ)
また、足利と同じ源氏の血を引く徳川氏も正成には好意的であり、水戸黄門こと徳川光圀は寂れていた正成の墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」と彫り込んだ墓碑を建立させていました。そのお墓は、今も湊川神社境内にあります。その光圀が着手した“大日本史”などで朝廷・皇室の権威を重視する学問で南朝が正統と見做されたことが、幕末における正成を崇敬する姿勢に代わっていくのです。
動乱の志士を支えた名将、近代化以降には陰りを見る?
討幕の英雄・正成は“朝廷に忠義を尽くし、幕府を滅ぼした名将・大楠公”として、志を同じくしていた尊王攘夷の志士らに崇敬されました。坂本龍馬が正成のファンとなって彼の墓に詣でたのも、こうした時代背景があったのです。龍馬は、討幕で日本をせんたくした正成にあやかり、『日本を今一度せんたくいたし候』と決意したと言えます。
幕府から皇室に政治の中心を奪還した明治維新は、建武の新政を開いた南朝の崇拝と、それを守ろうとした正成を国民の模範として称える方針を打ち出しました。明治5年(1872年)に正成を祀った湊川神社が建立され、“大楠公(だいなんこう)”と言う尊称を与えられた彼の逸話が歴史・国語・修身(道徳)の教科書に盛り込まれるなど、国家ぐるみで神格化されたのです。
そうした風潮は北朝の天皇と将軍、特に“後醍醐天皇に逆らい、正成を殺した反逆者”とされた尊氏への過剰なバッシングなど中世日本史の研究と関心を妨げる弊害を呼びました。太平洋戦争(大東亜戦争)の時には戦意高揚のスローガン“七生報国”を始め、楠公飯(炒った玄米に水を吸わせたご飯で不評だった)などに正成の名前や逸話が使われるなど、庶民に愛されるヒーローだった彼は、政権の都合を押し通すために利用され、不遇の時代を送ったのでした。