吉原遊廓はまるで“ひとつの社会”…女郎屋に暮らす人々の役割とリアルな日常 (1/4ページ)
江戸時代の幕府公認遊廓、吉原。ひとくちに吉原といっても、江戸時代初期に日本橋にあった元吉原、1657年の明暦の大火後に浅草の裏手に移動してからの新吉原の2つあり、落語などに出てくる「吉原」はたいてい新吉原の事を指します。
今回はその新吉原遊廓で妓楼(女郎屋)の中に暮らしていた人々を紹介します。
楼主妓楼の主人は楼主と呼ばれました。妓楼は2階建ての建物が多く、2階には座敷などがあって客を通し、1階の奥に楼主とその家族の生活スペースがありました。たいていは楼主とそのお内儀(妻)を中心とした家族経営で、お内儀がいれば当然子供もおり、そこには他と変わらない家族の営みがありました。
女郎を売るという職業上、楼主は「人の持つ8つの徳を忘れた非情な人間」という意味の「忘八(ぼうはち)」とも呼ばれました。