盲目的な愛の果てか?歴史的冒涜か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題とは【前編】 (4/6ページ)

Japaaan

聖武天皇には皇后・光明子のほかに数人の夫人がいたが、その一人である県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)との間に、基王に遅れること1年、728年(神亀5年)に安積親王(あさかしんのう)が誕生した。

聖武天皇(Wikipedia)

しかし親王は藤原氏の庇護下になかったため、皇位に就く可能性は低かった。この状況の中で注目されたのが、阿倍内親王である。

天皇と皇后は、阿倍内親王に将来の帝王学を修めさせるため、秀才の誉れ高い吉備真備を教育係に任じ、『漢書』『礼記』などを学ばせたという。真備は内親王の即位後も近臣として仕え、天皇をよく補佐した。

そして738年(天平10年)、阿倍内親王は立太子され、史上唯一の女性皇太子となったのである。

疫病・貴族間の抗争など国難の中で天皇に即位

阿倍内親王、すなわち後の孝謙天皇が皇太子となったのは20歳の時である。この時、父・聖武天皇と母・光明皇后はいずれも37歳という働き盛りにあった。

しかし、聖武朝のこの時期は大きな動乱に見舞われていた。

前年の737年(天平9年)、天然痘が大流行し、朝廷の中枢を担っていた光明皇后の異母兄・藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)をはじめ、多くの政府高官が相次いで病死するという惨事が起きた。

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