盲目的な愛の果てか?歴史的冒涜か?女帝・孝謙天皇が強行した道鏡の皇位継承問題とは【前編】 (5/6ページ)

Japaaan

藤原武智麻呂(Wikipedia)

当時の日本の総人口は約700万人強とされるが、その4分の1が失われた可能性もあるといわれ、まさに国難と呼ぶべき事態であった。

さらに740年(天平12年)には、藤原宇合の子・藤原広嗣が九州で挙兵し(藤原広嗣の乱)、朝廷を大きく揺るがした。この騒乱のさなか、聖武天皇は突如として伊勢国・美濃国への行幸を開始し、平城京に戻らぬまま恭仁京への遷都を断行したのである。

恭仁京大極殿跡(Wikipedia)

相次ぐ災害・疫病・戦乱に直面した聖武天皇は、深く仏教に帰依し、741年(天平13年)には国分寺建立の詔を、743年(天平15年)には東大寺大仏造立の詔を発した。

しかし一方で、彷徨うように繰り返された遷都は、朝政に大きな混乱をもたらした。為政者として不適切とも受け取られかねない天皇の行動に対して官民の反発は強まり、結局は平城京への復帰を余儀なくされることとなった。

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