どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは (2/9ページ)
読み返すたびに疑問が生じる「秀吉の御遺言」
一つ、内府(徳川家康)殿に対しては、太閤様も、長い間その律儀な人柄であるのを知っていられ、近年になって親しくされた。そうして、秀頼様を家康の孫千姫の婿になされたのだから、その孫婿の秀頼様を取り立てて頂きたいと、大納言(前田利家)殿と年寄五人のいる所で、度々仰せになったことである。
一つ、大納言(前田利家)殿は、幼な友達の頃から律儀な人柄であることを知っていられるので、特に秀頼様の御守役に附けられたのだから、お取り立て頂きたいものだと、内府(家康)殿と年寄五人がいる所で、度々仰せになった。
一つ、備前中納言(宇喜多秀家)殿は、幼少の時から太閤様がお取立てなされたのだから、秀頼様のことは放っておけない義理がある。御奉行五人(五大老のこと)にもなり、またおとな五人(五人の年寄)へも交わられて、政務万端、重々しく、依怙贔屓なしに尽力してほしいと仰せになった。
一つ、(上杉)景勝と(毛利)輝元は、律儀な人柄だから、秀頼様のことを取立てて頂きたいと、輝元には直々仰せられた。景勝は領国にいるので、皆々に云い渡された。
以上が、十一ヶ条にわたる「秀吉の御遺言」とされるものの一部です。これを読み返すたびに、筆者は正直なところ、どこか呆れにも似た思いを抱いてしまいます。
率直にいえば、「どうした、秀吉?」という気持ちです。