どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは (6/9ページ)
たとえば1590年(天正18年)、天下統一を決定づけた北条氏政・北条氏直征伐ののち、150万石に満たなかった家康の所領を関東へと国替えし、250万石へと大幅に加増しました。
この結果、家康の動員兵力は従来のおよそ4万から、7万5千を超える規模へと膨らみます。秀吉が北条征伐に際して動員した兵力が約20万であったことを思えば、自らの命による国替えで家康に7万を超える軍事力を与えたことは、やはり失敗であったといえるでしょう。
もしそこに十分な警戒がなかったとすれば、これもまた「どうした秀吉?」と感じてしまうのも無理はありません。
さらに朝鮮出兵の際には、秀吉は家康に名護屋城での留守居役を命じています。その結果、秀吉子飼いの大名たちが海を渡って消耗していくなかで、家康は莫大な兵力をほぼ温存することになりました。
もちろん、これは家康が自ら望んだ配置というより、あくまで秀吉の意向によるものだったのです。
「どうした秀吉?」その3.朝鮮出兵(文禄・慶長の役)そして、最大の「どうした秀吉?」が、晩年の秀吉が行った朝鮮出兵です。