どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは (5/9ページ)
無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相
もし仮に、将来において秀頼が豊臣家を継ぐにあたり、秀次の存在が脅威になり得ると秀吉が判断し、そのために秀次と妻子を皆殺しにしたのだとすれば、それはやはり「どうした秀吉?」と問いかけたくなります。
殺された秀次の男子は4名いたと伝えられています。当時は幼児の死亡率も高く、秀頼が無事に成長する保証は決してありませんでした。かつて石松丸や鶴松を幼くして失った秀吉であれば、その現実を痛いほど理解していたはずです。
秀次の男子たちは、ただでさえ一族不足の豊臣家にとって、きわめて貴重な血筋でもありました。また、秀頼が成人するまで秀次が関白として政権を支えていれば、豊臣家の基盤はいっそう強固になり、豊臣家の存続可能性も高まっていたと考えられます。
そのように考えると、秀次という存在は、豊臣政権の実情からすれば、絶対に失ってはならない人物だったのです。
「どうした秀吉?」その2.家康の関東国替え戦国乱世を統一した豊臣秀吉といえども、豊臣の天下を脅かしかねない有力大名は少なくありませんでした。その中でも、自らの死後、最大の脅威となり得るのが徳川家康であることを、秀吉は十分に認識していたはずです。
それにもかかわらず、家康に対する処遇は余りにも寛大に過ぎたのではないか、そんな思いも浮かびます。
