どうした秀吉?『豊臣兄弟!』藤吉郎が踏んだ豊臣崩壊ルート…戦国時代、最終局面の誤算とは (3/9ページ)
死を前にして語られた言葉とはいえ、いったい何を思ってのことだったのか、と考え込まずにはいられません。
62年の生涯のなかで、豊臣家の行く末について、もっと周到に備えることはできなかったのでしょうか。
いや、そればかりか、結果としてその将来を危うくする道を、自ら選んでしまったのではなかったか……。
そんな思いが、どうしても胸に浮かんでくるのです。
それではここから、豊臣家滅亡の遠因となったとも考えられる、秀吉の三つの判断について、あらためて見つめ直していきたいと思います。
「どうした秀吉?」その1.豊臣秀次切腹事件秀吉から関白職を譲られた甥の豊臣秀次は、1595年(文禄4年)6月末、謀反の疑いをかけられ、高野山で自刃しました。いわゆる「豊臣秀次切腹事件」です。
この事件の真相については、当時から江戸時代にかけてさまざまな説が語られてきました。淀殿との間に秀頼が誕生したことで秀次が障害になったとする「排除説」、秀次が「畜生関白」と呼ばれるほどの非道を重ねていたとする「暴君説」、さらには秀次が無実を訴えるため、秀吉の意向に従わず自ら命を絶ったとする「無罪説」などです。