『豊臣兄弟!』娯楽としては満点!でも引っかかる…“信長像”に残った歴史好きの違和感 (3/7ページ)
嫡子に統率力が欠けると見なされれば、家臣団がより有能な兄弟を担ぎ出すことも十分にあり得ました。そこでは血縁よりも、家の安泰こそが判断基準だったのです。
その意味でいえば、弟を排除するという選択は、戦国大名にとって必ずしも特異な行為ではありませんでした。たとえば、信長の最大のライバルの一人である斎藤義龍は、父の斎藤道三と対立する過程で、道三が寵愛した弟たちを先に討ち、その後に父も殺しています。さらに伊達政宗も、家中の火種となり得た弟・小次郎を自らの手で殺害したとされます。
『豊臣兄弟!』父・道三を討ち“親殺し”の烙印…信長が恐れた戦国武将・斎藤義龍(DAIGO) 再評価すべき生涯それは、戦国期に限りません。鎌倉幕府を開いた源頼朝は弟の義経を追い詰め、室町幕府の初代将軍足利尊氏もまた、弟の直義と対立の末に死へと追いやっています。
極端に言えば、武家政権の権力構造において「弟」とは、最も近く、最も危うい存在でした。血を分けた存在であるがゆえに、優れた弟は家中の支持を集めやすく、担がれやすい。だからこそ、主君の立場に立てば、時に非情な決断を迫られることになるのです。
もちろん、だからといって信長に葛藤がなかったと断じることはできません。ただ少なくとも、「兄が弟を討つ」という行為そのものは、戦国という時代において特段異例のできごとではなかった。そのような社会的な前提を踏まえたうえで、あの慟哭の意味を改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか。
