【豊臣兄弟!】共闘から決裂へ…織田信長と戦い続けた足利義昭(尾上右近)、執念の生涯[後編] (6/9ページ)

Japaaan

(Wikipedia)

しかし、この第二次包囲網による同盟軍の優勢は長くは続きませんでした。彼らの最大の弱点は、各勢力の地理的分断にありました。連携が困難なまま、信長は各個の撃破を進めていきます。

1578年(天正6)年3月、義昭が最も期待した上杉謙信が急死。さらに1580年(天正8)年4月には、頑強に抵抗した石山本願寺も降伏します。

そして、1580年(天正8年)4月、武田勝頼も滅亡すると信長包囲網は完全に崩壊。この勢いのままに、羽柴秀吉を司令官とする織田勢は、備中に侵攻を開始、備中の諸城は落城及び調略により次々と織田方に降伏していきます。

信長は、毛利討伐の手柄を主君・信長に譲るといういかにも秀吉らしい要請に応え、自らが中国戦線に乗り出すことを決定。ついに、義昭と輝元は滅亡の危機に追い込まれました。

室町幕府は義昭の死により幕を閉じる

ところが、その運命を覆す出来事が起こります。1582年(天正10年)6月2日早朝、京都本能寺にて、信長が明智光秀により討たれたのです。(本能寺の変)

この後、山崎の戦い、賤ケ岳の戦いなどを経て、天下を掌握した秀吉のはからいで、義昭は再び京都へ戻ります。約15年ぶりの帰還でした。

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