朝ドラ『風、薫る』学問を武器に!日本初の看護婦学校を作った実在人物、大山捨松(多部未華子)の激動の生涯 (7/8ページ)
また、アメリカの新聞に寄稿し日本の苦しい財政状況を訴えて義援金を集めます。集まったお金はいろいろな慈善事業に生かされたのでした。
明治33年(1900)に親友の津田梅子が女子英学塾(のちの津田塾大学)を設立した際には、捨松も瓜生繁子も全面的に支援。自分たちが理想とする女子教育の場を作ったのでした。
大正5年に巌が75歳で死去した後は公の場にはでなかった捨松ですが、梅子が病に倒れたために英学塾の後任探しに尽力するも、当時世界的に流行していたスペイン風邪により58歳で亡くなりました。
大山夫妻は、お互いに深い理解と愛情と絆で結ばれたおしどり夫婦として有名でした。
インタビューで新聞記者に「閣下(大山)は奥様が一番お好きなのでしょう?」と質問をされたとき「違います!一番好きなのは児玉さん(児玉源太郎)、二番目が私、三番目にはビーフステーキ」と即答した捨松。
当時の日本人女性なら、「いえいえ」ともじもじしそうな質問も、闊達に機知に富んだ答えをする人でした。
史実では、大関和と捨松がどのように関わったかという資料はないそうです。
ドラマの原案となった『明治のナイチンゲール 大関和物語』の著者、田中ひかるさんは「捨松は鹿鳴館のバザーで集めたお金で立派な看護学校を作ったんですよ。日本の看護史を語る上で欠かせない人物ですし、和と捨松が親交をもってもおかしくないですよね。」とのこと。
実際、学んだ知識や経験をもとに、看護への道と女性の教育や社会進出に尽力した生涯だった捨松。