朝ドラ『風、薫る』学問を武器に!日本初の看護婦学校を作った実在人物、大山捨松(多部未華子)の激動の生涯 (3/8ページ)

Japaaan

会津は旧幕府側だったので薩長の新政府軍に攻め込まれ、幼い咲子も傷を負うなど戦争の修羅場を体験したのでした。

この会津戦争で一家の運命は大きく変ります。咲子は、坂本龍馬の従兄弟でハリストス正教会の日本人初の司祭・沢辺琢磨のもとに里子に出されました。さらに、その紹介でフランス人の家庭に引き取られたり、一時はアメリカ人宣教師に預けられたりしながら育ったそうです。

その後、新政府がアメリカへの留学生を募集するようになります。山川家では、外国人の家庭で育ち西洋式の生活習慣にも慣れていた咲子を応募させました。咲子はまだ11歳でしたが試験に合格。

このとき、母・えんは「今生で二度と会えるとは思わない。けれども『捨てた』つもりでお前の帰りを『松』」と言い、「捨松」と改名させたのでした。

大山捨松(wiki)

優秀な成績で大学を卒業し看護婦免許も取得

当時、捨松とともに留学した女学生は全部で5人でしたが、2人は病気を理由に帰国し、残ったのは3人になってしまいました。捨松と、のちに日本初のピアニストととなる永井しげ(瓜生繁子)、津田塾大学の創設者、津田梅子でした。

この3人は自分たちを「ザ・トリオ」と呼び、異文化にもすぐに溶け込み親友となり、帰国後もその関係は続くことになったのです。

捨松は、牧師レナード・ベーコン宅に身を寄せ、英語を取得しつつ勉強し続け、全寮制の女子大学ヴァッサー大学に進学。

「朝ドラ『風、薫る』学問を武器に!日本初の看護婦学校を作った実在人物、大山捨松(多部未華子)の激動の生涯」のページです。デイリーニュースオンラインは、山川咲子大山巌風、薫る大山捨松明治時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る