【豊臣兄弟!】加藤清正・福島正則・石田三成が登場!史実で見る秀吉の『最強スター家臣団』の栄光と亀裂 (8/9ページ)

Japaaan

のち、寧々が高台院の称号を与えられ京都東山に高台寺を建立し、隠居をしてからも、立派な大名となった加藤清正や福島正則らが訪ねてきたそうです。

寧々に育てられた三人はそれぞれ才能を発揮するも…

五奉行となり戦乱を治め、世の中の平和を実現しようと太閤検地など多くの政策に携わった石田三成。

「賤ヶ岳の戦い」で功績をあげ文禄の役で、朝鮮に出兵し最前線で大活躍。築城の名人で、武者返しと呼ばれる独特の石垣が圧巻の熊本城を築いた加藤清正。

「賤ヶ岳の七本槍」の一人で数々の戦いで自慢の槍を振るった福島正則。

それぞれが目覚ましい活躍をしました。

そして、慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が死去。跡取りとなる茶々(淀殿)の子・豊臣秀頼はまだ6歳だったので、秀吉は徳川家康、前田利家ら五大老と石田三成らの五奉行に後を託していました。

しかしながら、石田三成を筆頭とする「文治派」と加藤清正を筆頭とする「武断派」の対立が、調停していた前田利家の死後に悪化。

慶長4年(1599年)「武断派」の諸大名が、石田三成を襲撃するという事件が勃発。襲ったのは、加藤清正・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・蜂須賀家政・細川忠興・浅野幸長の7将とされています。(襲撃ではなく三成の制裁を訴えようとしただけという説も)

あわや戦にというところで、徳川家康が仲裁。三成の身柄の引き渡しをされるも拒否し、三成の隠居を提案しました。これは寧々が後押ししたこともあり、諸国の有力大名からの同意も得られたのですが……。

『最強スター軍団』を作り上げた秀吉と寧々。けれども、武断派と文治派という二つの派閥はバランスを崩し、豊臣政権は滅亡していきます。

主人公の秀長が病でこの世を去ったのは天正19年(1591)のこと。

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